何度か言われたことのある、「信仰をもつ必要性」についての話

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「信仰を持つ」ということをお勧めされたことが何度かあります。

今まで宗教のみならず、様々な心理学というもの、精神医学、量子力学などの科学、東洋医学、西洋医学、哲学、沖縄のユタやノロ、音楽、芸術など様々なものに触れる機会のある人生でしたが、そのせいか、迷ったときに言われてきた、「信仰を持つと良い」この言葉について、すごく難しさを感じています。

その結果、たどり着いたワタシなりの「信仰」とは、今あるものを結んだ先にあるもので、それはもしかすれば、

「自分自身」でしかないのかもしれない、と思うわけです。

それぞれに良い部分や惹かれる部分が存在し、その惹かれたものについても、はたしてそれはそうと言い切れるのか、と心のモヤモヤが消えないものも出てくるわけです。なのでもう人生の半分は生きているであろうワタシですが、信仰の対象が見つからないままでいるわけです。

果たしてこれは、ワタシが優柔不断だからでしょうか。

そればかりではなく、「信仰できるものがあれば、それはもっと楽だっただろう」そう思うこともあったわけです。

大変難しい「信仰」というもの。

信仰の違いは、価値観の違いにもつながってくると思いますし、またそれぞれの正義というものが、争いを生むことにもなっている今の世の中。

特定のものを信仰する人間がそのものを知らない他者から見ると、すべて同じ人間に見えている世の中。

信仰=その者と決めつけられる世の中。

本来人間とは、唯一無二。グループわけできるものではない、と考えるワタシだからこそ、この本響学というひとつの考え方を残していく運びとなったわけです。

次回、信仰がないというワタシがこの数年惹かれる「般若心経と本響学」について残してみたいなと考えています。

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